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「掛軸 横山操」
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掛軸 横山操

横山操

心を揺さぶるような激しい作品があると思えば、優雅で繊細な花鳥図を描いたりと、天才という名をほしいままにした画家、掛軸買取 横山操。様々な苦境に見舞われながらも、絵画の世界に魅せられ続け、絵と共にに生き続けた伝説的な画家の1人として現在も非常に人気です。1920年に生まれた横山操は、 新潟県西蒲原郡吉田町の出身です。横山家に養子に出されており、幼い頃より絵画への深い関心を示し、独学で絵画を描いていました。そんな横山操は、日本画家ではなく洋画家を目指して上京を果たします。そこでは、洋画家として活動していた画家の弟子として入門し、ポスターや看板書きなどを経て、生活をしていく日々を送ることになります。そんな生活の中、自らの作品に作りにも余念が無かった横山操は、研鑽を積み続けていきます。そして、1938年の第25回光風会展に油彩画を出品。「街裏」という作品が、見事初入選を果たすことになりました。しかし、その入選の直後、師のアドバイスにより日本画へと転向するのです。日本画を本格的に学ぶこととなる横山操は、川端画学校日本画部の夜間部に入学し、忙しい中新しい絵画への情熱を燃やし描き続けます。元々洋画家であった横山操だけに、伝統的な日本画に新しい息吹を吹き込む斬新な作品を生み出す力がありました。その証拠に、青龍社という当時最も前衛的であった会の主宰している展示会で入選を果たしているのです。しかし、時は戦時中。徴兵、招集されることとなるのです。20代の頃には、中国戦線での兵隊生活を強いられ、ソ連の捕虜収容所などでの生活で10年という青年期を失ってしまうのです。しかし、その後にも追われるように新しい作品を描き続け、徐々にその才能が高く評価されていくことになったのです。多摩美術大学日本画科で教授として教鞭を振るったりと、美術界の発展にも高く貢献をし続けていきました。掛軸買取においても、この横山操の作品は高価買取となります。失われた10年間を取り戻すように、新しい日本画を生み出し続けた横山操。炎炎桜島などの有名作を生み出し、日本画の伝説となっていく程の人間へと化けた天才だったのです。